平成24(2012)年11月25日(日)~12月22日(土)
[水木金土/開廊、日月火/休廊] [時間/正午~午後6時]
☆11月25日(日)憂国忌当日は、開廊。
☆幻燈上映:11月25日(日)・12月8日(土)・12月22日(土)、午後2時30分・4時30分の各回約20分間。
☆【追加】幻燈上映:12月15日(土)、午後4時。
本展では、安彦さんの写真作品のほか、下記のとおり油彩画を2点展示しております。
(画廊にて配布のリーフレットより)
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ルーカス・クラナッハ(1472-1553)の描いたユディトは、旧約聖書外典の一つである「ユディト記」に登場する美しいユダヤ人寡婦であり、救国の女神である。
信仰心厚いユディトは、祖国を救うため、敵司令官のもとに着飾って赴き、エルサレム進軍の道案内を申し出た。その後、司令官を誘惑し、ある日眠っている彼の首を短剣で切り落とした。これに敵軍が動揺する機を逃さず、ユダヤは敵を打ち破ったという。
このクラナッハの作品を基に、安彦講平が描いた「ユディト」は、安彦20代の自画像であり、生首は30代の自画像である。1967年、安彦31歳の作。この作品は、当時東京にあった精神科病院である丘の上病院に展示されていたが、三島由紀夫自決の昭和45(1970)年11月25日、安彦は自ら展示をとりやめた。
救国のユディトと憂国の三島由紀夫、安彦の自画像としてのユディトと生首、そして三島の自決と介錯、その後、野ざらしの憂国忌ポスターを追いめぐった安彦講平。
幼少の頃より、言葉ではなく、ものづくりや芸術を通して自己を表現・顕現しようとしたと云う安彦にとって、クラナッハや、或いはグリューネバルト (1470-1528、一度絵筆を折った安彦に再び絵筆を執らせた)や、或いは靉光(1907-1946)の芸術との出会い、そして三島の自決は、ある種の羅針盤の役割を果たしているのかも知れない。
言葉を超えて、彼らの芸術や行動に表れるもの―其処にこそ顕現されるもの、畏怖。
滅びゆくことで、生まれ出ずるということ―。
言葉は言の葉となり、音も無く降り積む雪となって、時に我々の魂を静かに揺さぶる。
安彦講平の「ユディト」、そして、三島自決の翌年に制作された安彦の自画像、共に油彩画を展示いたします。
路上の「憂国忌」ポスターは、傷付き、破れ、野ざらしとなることで、其処に、ある種の陰影を生む。
その「影」にこそ、「顕現」するものがあるのではないか・・。
長年に渡り、その「影」を追い巡った安彦講平さん。
ご来廊された方の中には、本展で「安彦さんの仕事の基が分かったような気がする。」と、仰っていただいた方もいらっしゃいました。
音もなく香(か)もなく常に天地(あめつち)は かかざる経をくりかへしつつ 二宮尊徳
野ざらしによる陰影は、恰も「かかざる経」のようです。
頭でっかちになりがちな現代人こそは、時に「天地」の生み出す陰影に、こころで触れてみたいものです。
【影/顕現】 安彦講平―路上のまなざし 三島由紀夫憂国忌ポスターと自写像を撮る
多くの皆様にご来廊いただき、また、お世話になりました。
誠にありがとうございました。
安彦さんにとっても、私にとっても、様々なことが「顕現」した展覧会となりました。
「御陰様」です。
安彦さんは今、二度置かれた絵筆を再び執られています。
やむにやまれぬ魂(こころ)。
其処から生まれ、「顕現」してくるものは何か。
とても楽しみです・・。
廊主
(2012/12/24)